研究・開発の窓 COLUMN
新しい理論「生物力学」とAIを活用した汎用疾患予測モデルを開発
慶応義塾大学医学部 教授 桜田一洋氏(石井・石橋記念講座/拡張知能医学)
臨床試験で直面した2つの課題解決を目指してAI研究者に
医学・医療分野でもAI技術の応用が進み始めたが、慶応義塾大学医学部・拡張知能医学講座教授の桜田一洋氏は、新しい理論「生物力学」とAIを活用した汎用疾患予測モデルを開発し、社会実装を目指して研究を続けている。
桜田氏は再生医療からAI・メディカルデータサイエンスに専門分野を変えた異色の研究者で、2007年にヒト細胞初期化に成功し、2011年に疾患予測のための標準モデルを確立(2019年に特許成立)し、2024年に生物力学理論を完成させた。
「一見、全く異なった研究のように思われるかもしれないが、病気を治すというよりも、病気とは何かを理解し、発症を予防する研究という点では共通している」と桜田氏は話す。
再生医療の研究からAI・メディカルデータサイエンス研究に転じたきっかけは、製薬企業でパーキンソン病に対する細胞治療の臨床試験を実施した際に直面した2つの課題であったという。
1つ目の課題は「多様性の識別」。桜田氏が関与した臨床試験は、ドナー由来の培養ヒト網膜色素上皮細胞を付けたマイクロキャリアを線条体に手術で移植する治療だった。培養した細胞はL-DOPAの産生量は均一であったが、さまざまな増殖因子の産生量はロットによってバラつきが大きかった。桜田氏は「L-DOPAという指標しか見ていないと多様性は認識されないが、本来は細胞も患者もさまざまな異なる特徴を持つ。機械学習を用いて多様な特徴を有する細胞や患者を識別し、層別化する新しい技術を開発しようと考えた」と述べる。
2つ目は「プロセスのモデル化」。この臨床試験の第1相(オープンラベル)では約半数の患者で改善が示され、中には移植後6カ月してから改善し始め、9カ月で劇的に改善した例もあった。だが、第2相の二重盲検試験では細胞治療(手術)群だけでなく、プラセボ(偽手術)群でも大きな改善が示されたため、両群の有意差なしと結論付けられた。
何らかのプロセスを経て神経回路が再構築され、長い期間を経てからの改善やプラセボでの改善がもたらされたと考えられるが、現在の臨床試験や医学の枠組みではメカニズムが不明な改善は評価されない。
「現在の医学は、高血圧症でいえば、高い血圧という現象を引き起こすメカニズムを解明してそれを抑える方法を採るが、現象は抑えられても病気は治らない」と断定。
さらに、「健康から発症に至るには連続したプロセスがあり、体全体の挙動は細胞などの部分の状態と相互作用によって変化し、逆に細胞などの部分の挙動も全体の状態によって変化する。病気を理解するにはプロセスをモデル化する新しい科学が必要である」(図1)と結論した桜田氏はソニーの研究所に移籍し、AIを含めた情報科学を活用して予測の医学の研究を進めるようになった。

桜田氏は前述の2つの課題解決を目指す研究を進めた。1つ目の課題に対して行ったのは、機械学習による患者や細胞の識別である。例えば、COVID-19はSARS-CoV-2による感染症であることは誰でも知っているが、臨床上重要なのは重症、中等症、軽症の識別であり、感染前にどの人が重症化するか予測できれば役に立つ。桜田氏は大量の臨床データを特徴量というベクトルに変換し、機械学習や量子計算などの手法を用いて識別し、層別化するモデルを構築した。
「このモデルを用いて、初期の武漢型ウイルスで亡くなる可能性の高い人を予測することができた。メカニズムが解明されていない現象であっても、特徴量という方法を用いれば識別できるようになる」。
また、2つ目の課題「プロセスのモデル化」に対して、「現在の医学や生物学は現象を観察し、疾患メカニズムやネットワーク理論、情報理論といった形式に落とし込んでモデル化しているが、疾患を理解するためには他の形式があっても良いはずだ」と考えた桜田氏は、動力学の考え方を導入して、ライフコースのような経時データを学習させるための新たな形式を開発し、次に物理学で用いられている「原理に基づく」形式で疾患をプロセスとして理解する理論構築を進め、「生物力学」という新しい理論を考案する。
疾患を新たな視点で捉えるライフコースデータ学習と生物力学
桜田氏が考案した「ライフコースデータの学習形式」と「生物力学」は、動力学の概念で疾患プロセスを形式化するものだ。動力学の概念では、事象は「あるシステムNの状態x」として表現される。「状態」は、次の状態を予測するのに十分な情報で記述される。状態遷移には法則があり、ある状態が与えられたときに、次にどんな状態になるのかを予測する「ルール」として表現される。
「気付いていないだけで、診察で患者の現在の状態を把握して予後を予測する行為は、動力学と同じような思考に基づいている」と指摘する桜田氏は、生物の変化を形式化する研究を続け、生物学的な状態を構成成分(タンパク質や細胞)の種類と量で表現し、線形代数を用いて類似性を求めることで予測できるようにした。
桜田氏は「ライフコースデータの学習形式」とAIによる機械学習を組み合わせ、疾患の予後を予測するための標準モデルを構築することを目指した。具体的には、トランスフォーマや自己教師学習といった最新技術を用いて、完全な健康状態から、病気の根本原因となる変化を経て、未病状態、発症、治療開始、寛解、再発、慢性化のように遷移する人の一生をAIに学習させる『ライフコースデータ学習』(図2)という手法を確立した。
この手法を用いた桜田氏の汎用疾患予測モデルの概念は、2019年に特許を取得した。

桜田氏は同モデルに近い構造のモデルとして、囲碁の名人を打ち破ったGoogleの「アルファ碁」を引き合いに出し、「碁では最初は無限に手があるが、手を打つ度に次に打てる手(選択肢)が限定されていく。疾患予測モデルも同じで、AIの得意とする領域だ」と説明するとともに、その活用法についてこう続ける。
「疾患予測モデルはこの選択肢を選んだら、次はこうなると教えてくれる。自分で自分の未来を知り、採りうる選択肢の中から自分の考えに合った選択をするためのツールだ」。
例えば、「肝硬変への進展が予測されるなら禁酒してもよいし、予防薬を服用しつつ好きな酒を楽しんでもよい。一人一人の個性を大事にしながら予防するという考え方が重要だ。さらにこのモデルにより、発症前の段階で見つけて介入することが可能になってくる」。
疾患予測モデルのプラットフォームはすでに完成しているが、高い精度で機能させるためには膨大な臨床データの学習が必要となる。桜田氏は現在、日本と共通する高齢化、人口減少社会に直面しているEU諸国などとの国際連携を進めつつある。
また、並行して進めているもう一つの研究は、自身が提唱する生物力学理論の確立だ。生物力学理論を用いれば、学習データの量が少なくても原理による推論で予測モデルの精度を高めることができるからだ。
桜田氏によると、生物力学理論は、①生物の状態変化を状態空間AからBへの移動だと見なす、②メッセージ(細胞内外の情報伝達など)によって状態は変化する――という2つの前提で成り立ち、エントロピーの概念で生物の状態変化を考えることができるという。
桜田氏は初期胚現象に生物力学を応用し、未解決であった発生学の疑問に答えを出した。初期胚の分化過程において、胚盤胞から栄養外肺葉と内部細胞塊に分化する際にはモルフォゲン(分化決定因子)が存在せず、何が分化の鍵になるのか謎とされてきた。
そこで、生物力学理論で初期胚分化プロセスを6つの状態変化としてモデル化し、それまで同期して分裂していた細胞が5段階目でコンパクション(密集)することで同期が破れ、メッセージの力場が変化して、外側の細胞と内側の細胞に違いが生まれることを明らかにした。
桜田氏は「開発してきた汎用疾患予測モデルを実世界と仮想世界のデータを統合したデジタルツインに実装することにより、患者さんはどの治療法を使えば自身にとって豊かな人生を送れるようになるかが分かるようになる」と明言。その上で、「将来の医療は疾患予測モデルの活用なしには提供できなくなるだろう」と展望を語った。
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