COLUMN

X線回折実験でヒト角層の分子レベルの構造と化粧品・医薬品の作用機序を解明 
名古屋産業科学研究所 八田一郎 上席研究員

皮膚の最上層部にある角層は、バリア機能と保湿機能に関して重要な役割を担っている。名古屋産業科学研究所上席研究員の八田一郎氏(名古屋大学名誉教授)は、ヒト角層の分子レベルの構造解析と角層に対する化粧品や医薬品の作用機序解明で大きな足跡を残した研究者だ。
 八田氏のもともとの専門分野は固体物理。1967年に提出した東京工業大学大学院の博士論文のテーマは誘電体の相転移であり、酸化物超伝導体の発見でノーベル賞を受賞したIBMチューリッヒのAlex Müller博士と酸化物誘電体の相転移で共同研究を行ったこともある。

だが、固体物理研究に一区切りが付いたころ、脂質分子集合体に代表される自己組織化系の相転移現象に興味を持つようになり、生命現象に関わる生体膜の研究に転換した。

 

その過程で八田氏は「物質の相転移現象は温度や圧力などによる状態の変化を熱力学的な視点で論じてきたが、物質の構造を踏まえて考察することも重要なのではないか」と考えるようになり、名古屋大学で脂質分子集合体のX線回折実験を行うようになった。そんな時期に出会ったのが日本メナード化粧品の研究者であった。

 

八田氏は化粧品の皮膚に対する分子レベルでの作用について興味ある課題を10題ほど示し、同社との共同研究を開始した。当時はヒト角層を用いたX線回折による研究は世界的に見ても極めて少なかったが、「X線回折が優れている点は、採取したヒト皮膚組織をそのまま用いるex vivo実験によって分子レベルの構造解析が行えることである」と八田氏は説明する。

 

同社との最初の共同研究では、角層中の水分量を少しずつ変えたときのX線回折実験を行った。その結果、「この実験により水分量25wt%のときに角層中の細胞間脂質の構造が最も安定になることが分かった。この立場から正常な皮膚表面の水分量を見直してみるとほぼ25wt%であり、角層中の細胞間脂質の役割に迫ることができた」と八田氏は振り返る。

 

これを端緒として、八田氏はX線回折実験によってヒト角層の分子レベルの構造を次々と解明していった。角層は20㎛ほどの厚さの皮膚表層に、角層細胞と細胞間脂質がレンガとモルタルのように積み重なった構造となっている。これをX線回折で測定すると、細胞間脂質には周期13㎚の長周期ラメラ構造と周期約6㎚の短周期ラメラ構造があることが分かる。

 

また、細胞間脂質分子の炭素水素鎖の充填構造断面も規則的な直方晶や六方晶を形成している。角層細胞の中にはソフトケラチンがあり、これも1㎚の構造を形成している。

 

「細胞間脂質には350以上の分子種があるにもかかわらず、こんなにきれいな規則構造を取ることはまさに生物ならではの現象であり、それは何らかの機能に関係しているに違いない。だからこそヒト角層試料を用いて、これらの規則構造の変化を測定することが重要だ」と八田氏は考えた。

 

だが、X線回折実験でヒト角層の構造変化を研究するためには、個体差の問題を克服しなければならない。従来の実験では試料を化粧品や薬品の溶液に浸す前と後に、別々の個体の角層試料で測定していたため、X線回折像の変化が溶液の作用によるものか、個体差によるものかの識別が難しかった。

 

八田氏はn数を増やして統計的処理で個体差を克服する手法ではなく、同一の角層試料で測定することによってその問題を克服する方法を考えた。自ら設計・開発した「溶液セル」という専用の実験装置と高輝度X線を用いて、同一の角層試料に溶液を作用させたときからのX線回折像の時間変化を測定する方法である。高感度なX線回折像が得られる高輝度X線ならではの可能な測定方法であり、八田氏は世界三大放射光施設に数えられるSPring-8(兵庫県佐用町)で実験を行うようになった。

 

溶液セル(図)は放射光X線ビームを試料に当て、X線回折像を検出する装置で、ガラスメッシュ(ガラスろ紙)中に埋め込んだヒト角層試料の周りに化粧品や薬品の溶液を入れ、試料を溶液に浸した状態で固定できるものである。

 

ガラスはX線にほとんど影響を与えないため、試料の構造変化を見るのに最適な素材であるが、それまではこのような形で使用されていなかった。高輝度X線と溶液セルを用いたことにより、例えば、ヒト角層試料に30秒に1回ずつX線照射し、回折強度を検出するといった方法により、時々刻々と変化する構造を追跡できるようになった。

 

図 八田氏が設計・開発した溶液セル(左)とその構造(右)

 

SPring-8で行った研究の一つが、界面活性剤・硫酸ドデシルナトリウム(SDS)のヒト角層への影響を調べたクラシエとの共同研究である。SDSは肌荒れを起こすことが知られていたが、その機序は明らかになっていなかった。その研究結果によると、SDS水溶液をヒト角層に作用させたときのX線回折像は、長周期ラメラ構造の回折ピーク強度が時間とともに減衰し、最後には消失する。

 

一方、短周期ラメラ構造や炭化水素鎖の充填構造はほとんど変化しない。つまり、「SDSは長周期ラメラ構造を崩壊させることにより、角層に損傷を与えることが分かった」と八田氏は述べる。長周期ラメラ構造の形成にアシルセラミドが欠かせないが、さまざまな皮膚疾患においてアシルセラミドの欠乏が指摘されており、この研究で長周期ラメラ構造がバリア機能において重要な役割を果たしていることを明らかにしたものである。

 

さらに富士フイルムとの共同研究では、SDSで損傷を与えた角層にセラミドEOSを含むアシルセラミドから成るナノパーティクルを作用させると、長周期ラメラ構造が回復することを明らかにした。アシルセラミドの化粧品としての有用性を裏付ける研究結果といえる。

 

また、阪本薬品工業とはグリセリンの保湿機能に関する共同研究を行った。従来、皮膚脂質混合系(skin lipid mixtures)による実験では、グリセリンは角層の細胞間脂質の構造を乱すとされていた。だが、八田氏らがヒト角層を用いたex vivo実験で角層乾燥時のX線回折像を測定すると、グリセリンによって細胞間脂質の構造が乱されることはなく、従来の常識を覆す結果となった。

 

すなわち、この研究では乾燥時にグリセリンで処理した角層は、水だけで処理したときと比べ、角層細胞中のソフトケラチンの構造が長く保たれることが明らかになり、また、わずかに変化する細胞間脂質の充填構造は水分量の制御に働いていることを指摘し、分子レベルでグリセリンの有効性を証明した。

 

八田氏は、薬剤の経皮吸収に関係する研究にも力を注ぎ、溶液セルを使った最近の研究では、角層の細胞間脂質の構造の中にはかなりの割合で乱れた構造が交じっていることを明らかにした。そもそも乱れた構造を測定することが難しいために、それまでは注目されることもなかったが、乱れた構造の占める割合は八田氏らの研究では50%以上、フランスの研究者の論文では80%以下と見積られている。

 

乱れた構造部分は従来バリア機能を損なうものと考えられてきたが、薬剤の吸収経路としては有用に働くはずである。以前から経験則で経皮吸収可能な薬剤の分子量は500ダルトン以下と言われてきたが、八田氏のX線回折実験結果の考察から乱れた構造の平均分子量はほぼ500ダルトンであることが示され、経験則が理論的に裏付けられた。

 

八田氏は「乱れた構造は必ずしも異常というわけではなく、何らかの機能を持っていると考えられる。これからの角層研究の大きなテーマとなるだろう」と話す。

 

また、保湿剤や経皮吸収薬、化粧品には多くの種類があるが、それぞれの人の角層への作用機序が分子レベルで明らかになり、さらに「本人の細胞を培養、分析して、ある種の細胞間脂質構造を持った人には、それに合う薬や化粧品を提供するといった個別化医療・個別化美容が実現するだろう」と展望を語る。

 

最後に八田氏は、若い研究者にこうメッセージを送る。「今、取り組んでいることがどんなに小さいことであっても、世界のトップに出よう。先が細くても突き進もう。先に行くほどすそ野が広がり、友だちもできる。楽しくなる。現在の状況を把握するには、AIも役に立つのではないか。AIを活用して世界の状況を把握し、トップにあることを確信できる」。

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